少なくとも2011年3月11日午後2時46分までは、ごく見慣れた風景やあたりまえだった生活環境。それが、あの日、あの時間を境にとても大きく変化してしまいました。
震災直後はみんな無我夢中で毎日を生きてきました。
命は助かったものの、突然の別れと悲しみを受け入れなければならない人や、家や車を失ったり、働く場さえどうなるか、今後の生活はどうしたらよいかなど、叫びたい気持ちと失望感と、それでも生きなきゃいけない現実など、問題は山積みでした。
それでも、一瞬で家の中まで入り込んだ泥の掻き出しや、他の家から流れ込んできた家財の処理、今日を生きるために炊き出しの長蛇の列に長時間並び、友人知人の安否確認のため、もし会えた時に手渡せるわずかな食料と生活物資をリュックに入れて、徒歩や自転車で津波がもたらした泥にまみれながら遠くまで行きました。
電気がまだ復旧していない夜は、度重なる余震と寒さに耐えながらひたすら日の出を待ち、日の出とともに水をもらいにありったけのポリタンクやペットボトルを自転車に積んで数キロ離れた給水所まで行き、長蛇の列に並び…。
今思えば、自分が先の見えない過酷な状況に耐えることができたのは、毎日目の前のがれき処理や生活の復旧作業に没頭することで、不安な先々のことを考えないようにしようと思っていたのかもしれません。
それぞれが体験したこと、その後置かれた状況が違いますので、気持ちの持ち方も人それぞれで違いますが、2011年3月11日以降は、余震と津波の再来の恐怖に怯えながら直面した現実をしばらく直視できず、それでも震災の日の夜に社長が発した
「水と電気が復旧したら、たらこつくるぞ。」
という言葉や、その後たくさんの人々に助けられたことで現実を受け止められるようになりました。
それからはとにかく生き延びるために励まし励まされながら業務再開に向けて毎日必死に奔走しました。
約2ヶ月後の5月からは、日常を少しでも取り戻すための第一歩である「製造業務の再開」を皆様のおかげで何とか果たすことができました。
もちろん、会社の大切な財産である何十万件ものお客様データも津波により消失し、DM発送などができなくなりました。
まさにゼロからの再スタート。とにかく無我夢中で生きてきた1年でした。
今、震災から1年目の3月11日を迎えようとしています。
1年前には嫌というほど見たおびただしい程の瓦礫と泥、幾重にも重なりあったたくさんの家や車、津波と巨大地震で大きくえぐられた道路や線路。
遠く海から陸地に流れ着いた船、ビルの2階に突き刺さったままの車や家…、そんな光景が広がっていた場所も少しずつ処理され、広大な土地に建物の基礎だけが無数に点在するという非現実な光景が広がっています。
しかし、膨大な瓦礫類がそこからなくなっただけで、石巻市だけでもあちらこちらに瓦礫の山が築かれています。1年前は新鮮な魚を運ぶトラックであふれていた港町は、今やたくさんの瓦礫を運搬するトラックが長い列をなす場となっています。
石巻沿岸を一望できる「日和山」からの光景は、それまでの美しい光景とは正反対のがれきの山がそびえ立っているのがはっきり見えます。
このような光景を目の当たりにしながら、今後の街の将来を考えるととても不安になりますが、ここで生きることを決めた私たちがやるべきことは、今できる仕事を一生懸命やり抜くことだと思います。
たらこの製造販売を一筋に30有余年。
かつて、たらこの生産で日本一を誇っていたこの石巻で、たらこを知り尽くしたプロとして、この石巻に根付く企業として、今まで通り全国の皆様にご満足いただける美味しいたらこや明太子をお届けすることが、石巻復興のためだけでなく、今では数少なくなったたらこの製造メーカーとしての大きな役割だと思っております。
東日本大震災を経験した企業として、私たちの置かれている状況は大変厳しい状況です。震災の影響に加え、外国加工品や機械製造の安い製品に比べ、30年以上守り続けている「機械を使わない熟練した職人の手作業」による、ひと腹ひと腹じっくりと丹精こめて仕上げる手返し製法はどうしてもコストがかかってしまいます。
しかしながら、今まで培ってきたたらこ職人の高い技術と、この石巻で働くことに胸を張って「みなとの伝統製法で仕上げたたらこと明太子」を何よりも信頼してくださる全国のお客様のためにも、今も復興に向けて懸命に頑張る石巻の人たちとともに、一生懸命歩んでいこうと思います。